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22. ホイアン旧市街 |
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23. 来遠橋外観 |
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24. 来遠橋内部にある寺 |
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25. 貿易陶磁博物館外観 |
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26. 出土したベトナム陶器 |
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27. 出土した古伊万里 |
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28. 「Hizen」の表示 |
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夕刻、ホイアン到着。
ホイアンは、桃山後期から江戸前期にかけて盛んだった朱印船貿易で、日本の商人が多く訪れた港町として有名で、日本人町も作られていた事も広く知られています。
昨年世界遺産に指定された旧市街がその日本人町ではといわれ、昭和女子大学により発掘調査が行われましたが、結論は日本人の後に進出して来た中国人が作った街とのことです。(写真22.23)現在も街並みの復元は続けられており、日本からもスタッフが派遣されて作業にあたっています。
ホイアンのシンボルで、日本橋の別名のある来遠橋を見学した後、復元旧居を利用した貿易陶磁博物館を訪れました。(写真24.25)ここには街並みの発掘調査の際に出土した中国陶磁やベトナム陶磁、それに1660〜1700年頃にかけての古伊万里の陶片や、それに類する伝世品を展示しています。
古伊万里の種類は、芙蓉手皿のバリエーションを始め荒磯文碗、寿字見込鳳凰文皿など東南アジア諸国に多く輸出されたものです。特に珍しい文様や形状は見あたりませんが、海外の生活遺跡からこれ程大量の古伊万里が出土したのは、知っている限りの近い例ではインドネシアのバンテン王宮遺跡くらいです。(写真26)
また、ここでの出土状況は中国明代〜古伊万里〜中国清代と、古伊万里が明清の動乱期に代役として海外に運ばれ、清朝の安定とともにとって変わられたという史実を見事に裏付けるように、きれいな層になって出土したとの事です。そして、この大量の古伊万里出土が、市街発掘当初ここが日本人街ではと思われた要因ともなったそうです。
これらの古伊万里は大橋康二氏により産地及び年代の鑑定が行われ、おそらく荒磯文碗などのように有田以外の皿山でも多く焼成された製品があるために、産地表示も有田に特定せず「HIZEN(肥前)」となっています。(写真27)そのためホーチミンの骨董店では「ARITA」「JAPAN」と呼んでいた古伊万里を、ホイアンで覗いた骨董店では「HIZEN」と呼んでいたのがおもしろく感じました。店の主人は皿の高台内の目跡を判定基準にしているようです。
夜、宿泊先のホイアンホテルにおいて、JICAの要請で旧居復元にあたっている佐賀市の建築家江島明義氏を交えて夕食。ホイアンでの復元作業や建築物についていろいろと話しを伺いました。 |
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