窯の歴史
わが国の磁器の歴史は、元和2年(1616年)にさかのぼります。日本史上では、豊臣氏を倒した徳川家康が亡くなった年のこと。朝鮮陶工の李参平が、苦心の末に有田東部の泉山で良質の白磁鉱を発見した時から,本格的な磁器焼成の扉が開きました。焼き上げた製品は最寄りの伊万里港から「伊万里焼」として全国へ運ばれたため、江戸期の有田焼を古伊万里と呼び習わします。この磁器発祥の地・有田で、源右衛門窯が築窯して260年余。「古伊万里の心」を胸に、江戸・明治・大正・昭和・平成と時代を超えて、熟練陶工の手技(てわざ)による昔ながらのやきものづくりの伝統を継承してまいりました。
有田焼には、大きくわけて3つの様式があります。「柿右衛門」様式は、乳白色の「濁手」釉と赤絵の美しい華麗な磁器で、輸出初期の花形として海外で高く評価されました。「鍋島」様式は、鍋島藩の御用窯で焼かれた精緻で格調高い磁器で、幕府や諸大名、朝廷に献上されました。「古伊万里」様式は、柿右衛門・鍋島系を除く幕末以前の有田焼すべてを含んでいます。旺盛な時代感覚とバイタリティが赴くままの多様な絵付けが特長で、江戸期有田陶工の創造性が息づき、時代とともに美しく変貌する「古伊万里」ならではの魅力的な表情を秘めています。
その歩みをふり帰ると、17世紀初めの「初期伊万里」は白い磁肌と呉須の清楚な表情が、いまなお見る人を魅きつけてやみません。17世紀中期には、オランダ東インド会社の手で有田焼が海を渡り、17世紀末から18世紀はじめにかけての豪奢な文様美で飾られた「輸出伊万里」は西欧人を驚嘆させました。その後、宝暦7年(1757年)になって東インド会社の正式な輸出が途絶えてからは、「国内伊万里」へと転換します。海外向けの華やかな色絵の大壺や大皿にかわって、ブルーが美しい染付の小皿や茶碗など、国内向けの食器類が生産の主流になりました。以来、「古伊万里」は会席料理など日本独自の食文化の発展に寄与し、陶器や漆器とは異なる機能性と文様美で、食卓に彩りを添えてきました。
このように時代とともに柔軟に変化し進化してきた「古伊万里」は、江戸時代の日常食器の主役として全盛を極めるようになります。しかし、厳しく規制したものの、需要が高まるほど磁器製造技術の流出防止は困難になっていきました。文政11年(1828年)の“有田千軒の大火”による破滅的な打撃と職人の流出もあり、江戸後期から幕末にかけて、ついに、大消費地江戸に近い愛知(瀬戸焼)、岐阜(美濃焼)などの、安価で大量に磁器を焼く産地が出現。有田の市場独占が崩れはじめ、「古伊万里」は次第に、本来の美と輝きと活力を失っていきました。
そうした受難の季節から1世紀余も経った昭和45年(1970年)になって、ヨーロッパを探訪した六代・舘林源右衛門(1927-1989年)が、現地で本物の「輸出伊万里」の美を再発見。先人陶工達の技と情熱に深く感動し、現代の暮らしにフィットする源右衛門窯様式の「古伊万里」として新しい生命を吹き込み、みごとに復興させたのです。世界を見通した六代・源右衛門の、たくましい先取開発の気風は米国ティファニー社との共同開発など異業種企業との連携にも、着実な成果をおさめてきました。
21世紀を迎えた現在、源右衛門窯では、本物の「古伊万里」を創った江戸陶工の精神の高みと手技、そして六代・源右衛門の遺志をしっかりと受け継ぎ、時代と暮らしを直視した磁器の機能美を追求。日常食器からインテリア・工芸品まで幅広い分野の新作を開発するとともに、ハンガリーの名窯ヘレンドとのコラボレーションや、磁製万華鏡、磁製万年筆など新分野にも果敢にチャレンジし、時空を超えた「古伊万里」の美の創出をめざします。