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*写真-8
幕末様式
染付波千鳥文 皿
(そめつけなみちどりもん さら)
1780〜1830年代
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*写真-9
輸出伊万里
染付芙蓉手花虫見込 皿
(そめつけ ふようで かちゅうみこみ さら)
1660〜1680年代
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*写真-10
輸出伊万里
染錦菊牡丹文 皿
(そめにしき きくぼたんもん さら)
1690〜1720年代
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さて、江戸時代の後期になりますと、文様もどんどん変わってきて、一般階層向けの品が作られるようになりました。品格はそれほど高くないのですが、非常にポピュラーな、味のあるやきものが多く作られるようになってきます。1800年前後位に年代が下ると思いますけれど、8枚目の皿は、その頃につくられたものです。(写真8)
9、10枚目の皿は、特別な物語をもっています。有田の磁器は江戸時代、輸出を盛んに行っていた歴史があります。その輸出の歴史はふるく、1650年代に始まります。仲介していたのが長崎に商館を持っていたオランダ東インド会社です。その東インド会社の注文や、長崎にたくさん住んでいた中国商人からの注文を受け、盛んに作って輸出していました。
何で輸出していたかといいますと、そこにも中国がからんできます。中国の明朝が清朝に代わるのがちょうど1640年です。明から清に王朝交替する時、中国国内で動乱が起こります。中国の一大やきもの産地は、ご存知のように景徳鎮ですが、戦乱で生産が滞ってしまいます。また、清朝が政権を獲ってしばらくのあいだ鎖国するのです。
そうした情勢で、中国のやきものは、それまで盛んに東南アジアやヨーロッパなどに輸出されていたのがストップします。仲介していたオランダ東インド会社は困った末に、長崎の出島を通じて有田で磁器が出来るという情報を得まして、有田に見本の注文を掛けてきます。それが1650年代です。
有田では最初はレベル的にも、それほど高級な磁器がつくれなかったのですが、注文が入るに従って段々に技術も上がり、いいものができるようになりました。そんな中で最初の頃に一番盛んに輸出されていたのが、この染付の芙蓉手(ふようで)です。中国の様式です。芙蓉の花を正面から見たような画面構成になっているので、そう呼ばれています。(写真9)
もともと中国製を、今風にいえば有田がコピーをして、東南アジアや中東、アフリカ、最後にはヨーロッパまで輸出しました。今でも各地に旅をしますと、かなりの数の芙蓉手の磁器が骨董屋さんに並んでいたり、宮殿に展示されたりしています。ちなみにこの皿はベトナムで伝世していたものを、買い戻して来た品です。(ベトナム古窯めぐりはこちらです)
10枚目の皿(写真10)も同じ輸出伊万里で、江戸の元禄時代につくられました。輸出向けの品は意識的に金を多く使う傾向にあります。ちょうどその時代のヨーロッパではロココ調の流行っている頃でした。かなり装飾過剰なインテリアで、その雰囲気の中でのひけをとらない派手さが要求されたのです。
そうしたヨーロッパのニーズに応えてつくったのが、このお皿です。
輸出古伊万里の典型といいますと、大きな蓋壺です。絢爛豪華な有田のやきものがヨーロッパの宮殿を飾った時代がありました。ですから、現在でもどんな田舎のお城にいってもヨーロッパでは結構、この手の磁器がしっかり残っています。ヨーロッパでも古伊万里に少し詳しい方はさかんに『オールドイマリ』とおっしゃいますし、それなりの評価もされて博物館に収まっております。
私どもでは、実は去年からヨーロッパの市場を意識しております。年に2回フランクフルトのメッセに出展したり、去年10月にはトーマスフルトという、ロンドンでも1・2を争う老舗の高級陶磁器専門店で展示会を開催しています。なるべく日本風な品を持っていくのですが、やはり詳しい方からは「ちゃんとした流れになっている」「技法的にもしっかりしている」という評価を頂いています。
源右衛門窯では今、世界の垣根が低くなってきたと認識しています。ヨーロッパは市場としては近いのです。ヨーロッパの方から洋食器が来ていて、中には盛んに日本を意識したデザインが沢山あります。逆に私たちも『古伊万里のこころ』を今に受け継ぐ伝統的な磁器をヨーロッパに紹介しているわけです。
最近、「いいものはいい」という認識をしていただけるのは非常にありがたいことと感じております。私どもは海外の声も反映させて、世界に通用する古伊万里の歴史を踏まえた和食器の窯元として、今後も、時代に新しいやきものをつくっていく覚悟でおります。(談:金子昌司 平成13年2月 新潟にて取材・編集) |
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