古伊万里資料館
輸出伊万里



資料館内部 1階の中央が輸出伊万里のコーナーです。


17世紀初めに有田でつくられた初期伊万里からわずか半世紀。有田ではさらに高度な「色絵」を完成させ、輸出の最盛期を迎えます。ちなみに釉の下に呉須で彩画するのが染付けで、釉の上に彩画し低温で焼成したものを「色絵」と呼びます。
赤色をはじめ金や黄、紫、緑などを施した<赤絵>や、染付と赤絵を組み合わせた<染錦手>は磁器の表現を大きく広げ、世界からの注文が有田に殺到することになります。

記録によれば長崎出島からの最初の輸出は1653年(承応2)のこと。徳利型の薬瓶(ガリポット)が2,200本、バタビア(ジャカルタ)に向けて船に積まれました。以来、海の彼方へ運ばれる古伊万里の数は増加の一途をたどり、多い年には年間70万個も輸出されました。
それらの磁器が西洋の文化や美術、また生活様式に与えた影響の大きさは量り知れないものがあります。

万金を投じて買い集め、宮殿の壁面を磁器で埋め尽くした王候貴族たち。そして神秘の磁器を何とかつくり出そうとした練金術師たちの汗と涙の軌跡…それらの物語以上に、記録としては残されていない有田の陶工たちの、活気に満ちた作陶の日々が目に浮かんできます。

厳しい鎖国政策をとっていた江戸時代、唯一の窓口となっていた出島から有田に、様々な注文が届きます。言葉や文字も知らず、どんな生活の場面でどのように使われるのかもわからない不思議な形状や文様の依頼を正面から受けて、迷いながらも創り続けた陶工たち。

華麗な磁器が並ぶ古伊万里資料館の輸出伊万里のコーナーには、新しいものに対する有田の人々の情熱や意欲、強い好奇心と、壮大な文化交流のロマンが当時のそのままに漂っているような気がします。


染付欧字入手付注器
染付欧字入手付 (SOMETSUKE-OUJIIRI-TETUKI)  注器
(18世紀初期高12.5cm 源右衛門窯古伊万里資料館蔵)

調味料入れとしてヨーロッパから特別に注文された器で「Z」の文字の間違いにみられるように当時の陶工の苦労がうかがえます。東洋趣味が王侯・貴族の食卓にまで及んでいたことが裏付けられます。


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