そして、有田にとって肝心の輸出先では、デルフト窯(オランダ)、マイセン窯(ドイツ)などが、伊万里焼を模したかなり良質な磁器を生産するようになってきたのです。
海外での需要は急速に衰えました。しかし、有田の窯々は、状況の変化を座視していたわけではありません。その目は機敏に国内需要に向けられ、西欧向けの色絵の大壺や大皿から、染付けの茶碗、小皿など、日本向けのやきものがつくられるようになります。
この頃から、国内各地に運ばれはじめた伊万里焼は、日本の暮らしに、急速に広がっていきます。
それまでの、ぽってりとした陶器と比べ硬く焼きしまり、器形もシャープで、素地が白く絵が映える磁器は、江戸時代の人々に歓迎され、全盛期を迎えることになります。
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